『教育者』はもういないのか

大学の機関で研究活動をしている方と、時々話す機会があります。
先日は日本語が乱れ壊れている件で、ひとしきり笑いそして揃って憂鬱にもなりました。

研究会で発表を聞く、その方のジャンルは『鳥』なのですが

「全く…鳥に敬語使っちゃってたり」

えー。
一介の大卒として思うのは、大学という高等教育の現場で更に深く学ぼうとする人たちには、
学びの最前線に身を置く身として、正しく表現してほしい。
少なからず、論文とか…残るよ?
でもその方と話すうちに、そこも問題だけど一番の問題は、初等教育で皆に等しく授けていないからだ、という考えに至りました。
日本語を多分、ちゃんと教えていない。

アメリカでは、作文の授業は2種類あるんだそうです。
論理的に書く
情緒的に書く(Literary = 文学的な)
論理的に書く方は特に説明いらないと思うんですが、情緒的に書く方は例えば何かの記念日に
お母さんに宛てた手紙を書く、とかそういうお題なんだそうです。
どちらも『文を書く』んだけど方向性は全く逆、かたや気持ちが伝わるように、かたや理論立てて。
人は経験の生き物ですから、トレーニングすれば

言葉は変化していくものだけど…
母国語くらいちゃんと使えた方がいいと思うけどなぁ。
自分がちゃんとしてるかって言ったら、決して模範的でもなんでもないのであまり言えませんが。
でも、自分の生まれた国の文化を正しく知って身につけるのは、外で通用する人材育成の近道だと思うのは私だけでしょうか。

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娘が先生と呼ばれる立場の人から頼まれごとをして、1日で仕上げて提出したら

「いやー助かったよ、マジありがとう」

教育者はもういないのかな。