COACH のカバン

この家に嫁に来る前、2年ほど アメリカのバッグメインのファッションブランド “COACH” のお店にいました。
私が居たのは、銀座三越のショップでした。


その昔 COACH といえば、きまって三越のライオン口(正面玄関)を入ったところに売り場がありました。
なぜって、COACH の日本国内での正規品の取り扱いは、当時三越の100%子会社が独占していたから。
のちにコーチジャパンが発足、社員は丸ごとコーチジャパンに移籍となり私もその中のひとりでした。

私が入ったのは、ちょうどぶ厚い革のカバンをやめてしまった頃。
(メンズとごく一部のモデルに僅かに残ってたかな…)
ダッフルサック…いわゆるバケツ型の肩掛けカバンにずっと憧れていました。
が、私が入った頃にはラルフローレンからデザイナーを迎えて、デザインが大刷新された頃。
COACH の ”C” を全面に押し出すデザイン『シグネチャー』が新しい定番となっていく…そんな時代でした。
私は、決してスタイリッシュではない”ぶ厚い” COACH が好きだったんですが…

COACH は元々、乗り物の COACH 馬車から名をとったと聞いたことがあります。
シグネチャーの ”C” は、幌馬車の幌のアーチの形 Cをデザインしたものだそうです。


ぶ厚い COACH はそもそも食肉牛の皮、捨てちゃう部分をなめして活かしたのが始まり。
食肉牛ですから、いいもの食べてる♡
そして成牛だから厚みがあって丈夫♡

なめして
着色して
外縫いでカバンにして
縫い目にパイピングを施して

それが COACH のカバン。
今様に言う「サスティナブル」だと思いませんか?
捨てちゃう部分を活かして、厚みがあっても外縫いなら比較的縫製もしやすく、パイピングは擦れたら交換可能!

イメージわかない方のために…
これが唯一私の手元にある、今となっては ちょっとしたVintage …Ergo ってモデル。
入社してすぐ、社販でまだ古いモデルが残ってたので買い求めたものです。

残念ながら、憧れのダッフルサックはもう残ってなくて買えませんでした。


在籍していた頃、店頭でカバンのクリーニング&艶出しサービスをしていました。
メーカーとしてクリーナーとモイスチャライザーを出していて(販売もしていてた)、店頭で自社カバンを持っている人にスタッフが声をかけて、店頭でお手入れして差し上げる…というサービス。
ライオン口はどこの店舗も待ち合わせによく使われるので、購入したくて見ているのか時間潰しで眺めているのか正直わからないんです。
今、その慣習?が続いているかわかりませんが、いかにも百貨店系の会社らしいアイデアだなぁと思ったものです。

手持ちの Ergo、娘も年頃になりこの間、彼女が出かける時に貸したので、今までより出番が少し増えるかなぁ…と思って、手入れをすることに思いが至りました。
まだモイスチャライザーとか買えるのかな?
オンラインショップへ行ってみたら…買えるみたい!(だーいぶ値段が上がってたけど!)

気に入ったものを手入れして長く使う…道具の基本です。
そして扱いに気を使うような高級品ではなく、実用に即する頑丈でキチんとしたカバン。
自分の身の丈によく合っている気がするので、この先も大事にします。

できれば 程度の良いダッフルサックを探して買い求めたいなぁ…


この小包が届いた時のこと。
クリームの小瓶を2つ買っただけなのに、なんなのこのパッケージは?!
やりすぎだよ…もったいないって。

でもって、購入した小瓶2つをどかしたら…
一番小さいサイズのショッパー(紙袋)2つと、万一の返品に備えて着払い伝票が同梱!
商品の数だけショッパーを入れ、パッケージ1つにつき着払い伝票を入れるのがルールなんでしょうが…
必要なのこれ?!
創業以来のぶ厚い サスティナブルな COACH が好きだった世代からすると、違和感しかありません…


私がいた頃は、商品は続々と入れ替わっていましたがまだまだ過渡期で。
納品の時に入ってくる厚手のボール紙の折りたたみの箱に包装紙+リボンでプレゼント包装してました。
割と「あるものを使い」ながら、百貨店系らしく「お包み」は手を抜かないで…そんな感じでした。
バカスカ売れる店舗の狭い狭いスペースで、ギフト需要に対応してでっかい箱を包装紙で包んでリボンをかける…そんな毎日でした。
元々ギフトラッピングとか大好きだったので、お包みのクオリティとスピードそして正確さ…あの環境で鍛えられたのはある意味幸せでした笑
斜め包みで表現する祝儀/不祝儀も叩き込まれました。
百貨店の中ということもあり「のし」の需要も少なくなく、結婚式の引出物の数合わせ(割れない奇数にするための)に

Key Fob(当時 5,000円)を50個、内のしで!

そんなお客様が突然店頭に現れたり(注文の連絡とかなくていきなり笑)そんなこともありました。
のし紙の種類を選び → 結婚式なので 結び切り
表書きを筆ペンで → 引出物だから 内祝
名入れを筆ペンで → 夫婦連名?両家連名? 

9人も居るショップの店長 / 副店長に次ぐ年齢で、配属された瞬間から年長者の部類…
なので筆耕のおハチが回ってくることしばしば…
(筆耕とは言わないか…お金を頂いて書いてるわけじゃないから)
狭い店舗のバックヤードのお包みしてる傍で、人様の門出のお手伝い笑
思い出してもなかなか壮絶でした…おかげさまで鍛えられました。

COACH といえば、夫の財布。
まだ勤めている頃、プレゼントしたものですから…25年くらい経ってますかね笑
実は5年ほど前に、お直しに出してます。

ファスナーが刃こぼれしちゃって。
でも他はなーんでもない。
気に入ってるし 使い勝手もいいし 何より何ともないから勿体無いし。
勤めている頃に、修理も店頭で預かって承っていたっけ…
ふと思い出して調べたところ、まだ修理受けてたので(今でもやってる!)修理に出しました。
ついでにホックもゆるゆるになってたので、新しいものに取り替えてもらいました。
費用は、ちょっとしたお財布を買えるような値段でしたが、やっぱり馴染んだものはいいので…。
今なお現役!
やっぱり気に入ったものは長く使いたいですよね。


カバンのお手入れの話からずいぶん脱線しました…
懐かしいことをあれこれ思い出して。

最後までお付き合いありがとうございました。

8月が終わる

 去年の今頃(8月の中旬〜2週間)は、孫の入院でてんやわんやでした。

昨年のまだ寒い時期、台所での監督不行き届きで指にやけどを負わせてしまい…
軽度ではなかったため、一部の指が曲がった状態で治っちゃった、という感じ。
指導の通り保湿しまくってたのですが、1歳児に指はなるべく伸ばすように なんていう理屈は伝わる訳もなく。
曲がったままでは指の成長に響き、奇形みたいになっちゃうと言われたので皮膚移植の手術を受けることになったのです。

幼児ですから全身麻酔、手術としては 1H30M 程度のものでしたが術後は2週間様子見で要入院。
相部屋の泊まり付き添いは禁止、と説明を受け仕方ない…個室なら泊まりOKだというのでまだ幼いし個室をお願いしました。
去年の8月は、娘が初個展終わらせた直後。
寝かしつけの時間は準備におおわらわのママに替わってジジババが担当していたため、入院して環境が変わったこともあり尚更「ママ」ではすんなり寝ないという事案(笑)が発生。
そこで2交代制のシフトを組み、日勤ママ 夜勤ばーば で乗り切ることにしました。

3pm 過ぎ、店から自宅へ戻り簡単に夕飯の支度。
430pm 頃、自分の夕飯と翌朝食になりそうなものを簡単に持って、自転車で病院へ。
汗だくなのですぐシャワーを浴びる…この頃、じーじ(夫)が面会に到着。
530pm頃、夕食が届けられる。
(このタイミングでママとじーじは静かに退却)
翌朝930am 頃、ママが自転車でばーばが作っておいた弁当を持って病院に到着、夜勤のばーばと交代。
ばーばは自転車で自宅へ戻り、昼食の支度をして店へ。

この繰り返しを約2週間、ケージのようなベッドで本人が一番頑張ったし、周りもよく頑張りました。

これはある日のママのお弁当。

ホントは大好きなじーじが泊まれる日があればよかったのですが、形成外科の病棟が小児科と泌尿器科の MIX フロアで、小児科は女性しか泊まれない、と…。
意味が解らず説明を求めると、小児科は14歳までカバーしているから年頃の女の子が病棟にいる可能性もあるので男性はちょっと…という返答。
フタを開ければ、食事の時間になるとナースステーションの前には、食事の介助が必要なお年寄り(多分泌尿器科)が車椅子で何人も並んでる…お年頃の女子の姿などついに1度も見ませんでしたがま、規則ですから仕方ない笑


夜勤のばーばは、ポータブルの手元灯とPC・仕事(主にお帳面)を持ち込み、患者(孫)が寝た後に暗闇で仕事してました笑

ちょうど会社が8月末が決算。
まさに今、鋭意取りまとめ中で1年前のことをいちいち思い出しながらやっています。
当分の間、毎年この時期になると入院中のあの日々を思い出すのかな…と思っているところです。

ラリーのドキュメント類 今昔

ここ数日、過去に氣谷が走ったステージをふりかえっていまして。
手元に全てあるわけではないのですが、過去のロードブックをパラパラと紐解いたりしています。
これは1994年、これは Regulation です。
その昔はもちろん取り寄せ。
今や、アプリで通知が来て、瞬時に確認することができます。

かつては公式通知やスタートリストなども、HQ の掲示板に示されるだけで。
どんな夜中でも、仲間の誰かが掲示板を見に行って確認したものです。
通知の類も、ご飯食べててもホテルで支度におおわらわでも、翌日に備えて布団にいても確認できるんですから…

2023年の Manx ふりかえりでも、アプリのことについて触れています。
今は日本でも、多くのイベントがこのアプリを採用しています。

いやはや、ずいぶん時代が変わったなぁ。


1996年、West Yorkshire のLeeds に HQ だった RAC International Historic Rally

ロードブックを開けると…

あらまぁ。
裏表紙に旧 9741(1989年の初ラリーから90年代、氣谷が乗った Morris Mini Cooper)が!

1992年以来、RAC Historic は皆勤賞だったそうで、日本からえっちらおっちら参戦するコンペティターはある意味、目についたのかなぁ…
「あぁ今年も来るのね」的な。

継続は力なり。

梅雨雲の

梅雨雲の うぐひす鳴けり こゑひそか   水原秋桜子

グレイスの裏手には㹨川(いたちがわ)が流れています。
梅雨の雲の低く垂れ込める下で、どこからかうぐいすの啼く声が聞こえてきます。
上郷の鶯は、いい喉をしていますよ。

梅雨ですね。
湿気は自動車の大敵、人も車も過ごしづらい季節がやってきます。

***
湿気にも負けず、今日は MGA のブレーキ(ドラム→ディスクへコンバート)の支度をしています。
台座を作って…

***
懐かしい車が車検で来ています。
店主が、1999/2000年 Network Q Rally(現在の Rally GB)を走らせた Rover Mini 1.3i です。
役目を終えてから、当時深く関わってくれたクラブ員に譲りました。
今の見た目は、2000年の Gr.A 仕様になっています。

ステッカーを見ると、時代の流れやらいろいろなことがわかって興味深いです。

Midland Mini Centre
店主だった Tony さんは 2010年過ぎに店を畳んで Bull Motif Spares に合流、コロナで身動きが取れないあの時期に、病気で逝ってしまいました…お別れにも行けなかった。
MINTEX
ステッカーを貼って 25年も経ってるのに憎々しい程にピンピンしてる…いい素材を使っていることがわかります。
garage Grace
URL が garage-grace.com(現在は garage-grace.jp)
ロゴも旧ロゴ…当時のものはフォントは使っておらず手で描いたもの(現在はBrush Script)
GG 関係のスポンサーのステッカー制作はお客様に依頼したのですが、褪せておらずピンピン…こちらもいい素材を使ってもらったんだわぁ、と今更ながら感謝。

軽く四半世紀前…時間の流れを感じます。

ドライビンググローブ今昔

今週は、車検ばっかりいってたので日々を綴ろうにも面白みにかけたのでつい…


来週末(土曜の未明)には出国です。
今朝、Sportity(スポーツイベントの情報を配信するアプリ)を通じて、Manx Rally 2025 のロードブックが公示されました。

今日は帰宅後、夫がレーススーツなどの装備品を支度していました。
(ナメた話なんですが、私は支度したことないんです…)

装備品一式が収めてある衣装ボックスの片隅に、ドライビンググローブが残っていました。
この20年あまりの間に、グローブもずいぶん変化したものです。

スウェードの手袋なんて、もうずいぶん前のものです。
装備品は、その競技会の格式や国にもよりますが、FIA(国際自動車連盟)の承認を受けたモデルを使わなければなりません。
定める規格は、より安全な素材へと時代が進むにつれてアップグレードしています。
ウエアの類に最も求められるのは、「耐火」です。

新しいモデルが出ると、耐火に加えてグリップ性を考慮したデザインなど、改良がなされてきました。
こう並べてみると、一目瞭然ですよね。
古いものをはめてみましたが、ずいぶんともっさりとした印象…
素材自体も薄くなっているので、握った感覚はより伝わりやすいのは新しいもの。
後戻りできません。

安全装備は、モータースポーツをする上で最優先事項です。
お客様や仲間がこの領域に足を踏み入れようとする時、必ず強く言います。
車のチューニング?そんなのあとに決まってます。
最初っから速いのに乗れるの?
チューニングは一番最後です笑

一番に考えねばならないのは、安全のこと。
車を安全に作る(そちらにお金をかける)
そして装備品はケチらない。
これは、ひいては車でスポーツをすることに理解を示してくれる例えば家族の気持ちへの礼儀。
初めは大して速く走れずとも、でも危ないことをしているので、気持ちよく送り出してくれる理解者の気持ちに応えるためにもそこは最優先で考えるよう話しています。

だんだん本番が近づいてきて、緊張感が高まってきます。
競技ももちろんですが

諸々片付けて段取りつけて日本を出る

これもなかなか緊張感を持って向かわなければならないミッションです…笑

水曜夕方のFMプログラム

NHK FM の水曜夕方は、JAZZ が流れています。
帰宅の折に聞こえてくるときまって、数年前 数年間に渡って続いていた義兄の通院の
付き添いを思い出します。

多発性骨髄腫で下肢が不自由になった義兄は、自宅で暮らすことが困難になり施設でお世話になる
ことになりました。
前後して定期受診が始まり、金庫保管を求められるような薬を使っていたので通院は少なくとも
2週間に1回という頻度でした。
数値が悪いと「また来週」。
定期受診の2回に1回は、血液製剤の点滴付き(少なくとも2時間)。
本人は通院に昼寝付き(笑)で、ずーっと車椅子に座っているより体への負担は軽減できるので
よかったのですが、付き添いは盛大な待ちぼうけです。
書類を持ち込んで廊下の椅子で仕事してました笑

運よく彼の生活圏内に多発性骨髄腫の権威が居て、施設から荒川を渡れば病院。
血液内科は激混み、そして横浜から迎えに行って通院ですから…
施設の方々も、それはそれは親身になって持病と向き合ってくれました。
家族が通院を担うことで強い連携が取れ、家族としても施設側としてもいい体制だったと思ってます。
ただ、いかんせん距離がありました。
娘は中学に入るタイミングだったので、味噌汁を作っておいてくれる位はしてくれるようになり
ましたが、通院の水曜日は食事の支度をあらましして午後の受診に合わせて本人を迎えに行く…
そういうルーティーンでした。

運よく早めに終わると、義兄を施設へ送り届ける車内で流れていたのが JAZZ の番組でした。
強い日差しの日も、氷雨の降る日も。

義兄は連れ合いを先に送ったのち、気持ちの整理がついてからは、我々の海外渡航に悉く同行。
仕事にも、ラリーにも。
殊、ラリーの時には、私がコドライバーとして乗るようになってからは(娘小1〜)娘の世話をしつつ
マン島で一緒にステージをまわったりしていました。
車も向こうでフツーに運転してたし、夫と2まわり違う義兄でしたが晩年動けなくなるまでなかなかの
バイタリティの持ち主でした。

まさか歩けなくなる日が来るなんて。
タラレバの話をしても詮ないことですが、病気の発見が早かったらまだ元気でいたのかしら。
まだラリーに一緒に行ってたかな。

水曜日、Jazz の番組が流れてくると義兄をいつも思い出します。
折しもマン島のラリーを4月の中旬に控え、細々準備も日々進めているので余計に思い出します。

冬が去っていく

毎日、私が最後にお風呂に入って、ユニットバスの壁やら蛇口まわりやら床やらを拭き上げてから
出ることにしています。
今日はいつもより2時間くらい早い入浴、湯気を逃すのに開けた窓から空を見上げると、オリオン座が
だいぶ西へ傾いていました。
あぁ、冬が終わって春が来る。
早いなぁ。

***
2年前の2月は、スノーラリーに店主が参戦。
孫の誕生を控えていたので、私と娘は参加せず。
世にも珍しい(?)リモート観戦及び現場の様子はこちら。

やっぱり好きなんだよ(故 篠塚健次郎さんとお会いしました)
今日から始まります
Rally of Tsumagoi 2023 Leg1
Rally of Tsumagoi 2023 Leg2
まつりのあとは掃除から

今年のラリーオブ嬬恋は、全日本からも外れ(昨年から)ナイトステージもなくなり(確か去年から)
ボリュームは我々が出た 2019 と比べると半分程度…
多分、もう行くことはないだろうな。
雪もグラベルもどんどんなくなって、つまらないなぁ…

噂によれば、選手権を戦う車がそういう路面(雪/グラベル)は苦手だから、って話です。
やれやれ何だそれ笑


今週末はラリー三河湾です。
2/27(木)午後〜日曜いっぱい 臨時休業とさせていただきます。

思えばョ〜 積載車の話。

私が就職したのは昭和53年。
神奈川県内で最大規模のスバルの個人ディーラーに、高卒で就職しました。

あの頃は大手(トヨタや日産)ですら、例えば横須賀地区で1台、といった風で現在のように各店舗
毎に控えているそんな状況はありえませんでした。
だってそんなに止まらない…もの。
仮に止まっても、現場へ道具と部品を持って急行し直しちゃう or 動くようにしてその足で入庫、
そういうことが殆どでした。
行った方がいいケースは…例えば事故で動けない、とかブレーキとか運転に支障のある場合、とか。

今はどうでしょう。
すぐに動かなくなって、レッカーを呼ぶ…昨今は自動車保険の付帯サービスにロードアシストって
あることが多いので、保険屋に連絡。
グレイスでも、人手の問題と出向く時間/お待たせする時間を考えて、保険の付帯サービスを利用
して入庫してもらうことが増えていますが。

動けなくなるケースって?
マネージメントシステムの不具合、圧倒的に多いんじゃないかしら。

自動車の事情も、随分と変わったものです。
同じ「自動車」というくくりのミニなどの古い車には起こりづらい不具合ですもんね。
(インジェクションモデルを除く…だから年式が新しい車は遺すのが難しいんです。)

こうなってくると、自動車は進化したのか退化したのか…わかりませんね。

ひょんなことから芋づる式

私の出た学校の同窓会が会報誌を発行していて、それが先日届いたのですが…
教わった先生のお悔やみ記事が掲載されていました。
学園出身の家庭科の先生で私は高3の時に教えて頂きましたが、後に小中高の校長も務めたそうです。

実家の母に伝えたところ、当時 私の話に聞く程度だったようですがにわかにその頃のことを
どばー
っと思い出したようで、出てくるわ出てくるわ…笑
5歳下の妹も同じ中高一貫の学校に通っていたので、我々の当時のこと、学校に通っていた頃の
出来事あれこれ(家族、親戚、etc…)、互いに懐かしく話しました。

母より *( )内は私の註釈
ずいぶん時は流れたもんだ
あの頃はまんまもいたし
(母と同い年の私の父方の叔母の愛称、当時40代前半。60代半ばでガンで他界)
ばあちゃんも元気で凄く充実していたわよ♪
(父方の祖母 コロナの入り端で101歳で大往生、当時は70代)
ばあちゃんのお世話みたいなことをしながら
アパートを見て(小さいアパートですが家作がありまして)
子どもたち(私と妹のこと!)に茶色い弁当持たせて
あー懐かしい
なんて老婆?

それに私が返信。
それを母の脇で見ていた父が、

「そんなに懐かしがって…誰か死んじゃったみたいじゃないか」

いいじゃないの。
みんなあの時があって、今がある。
あの後、あんなことやこんなことがあって、今がある。
今、こんな生活送ってるよ!なんて当時は想像だにしない。

母のメッセージを見るだけでも…
ばあちゃんが100歳超えて、総理大臣からお祝い状と記念品を贈られるとは思ってもみないし。
しかも、一時的な入院こそあれ、最後まで在宅で世話をやり切った。
…だから当時のことを、お世話「みたいなこと」と彼女は表現。
そしてばあちゃんの娘、父の妹であるまんまが、先に逝く(いわゆる逆縁)ことになるとは

今や、私もおばあちゃんですよーだ笑
みんなあの時があって、今がある。

母が「子どもたち」と言ってるのが、妙にこそばゆくって。
あぁ、私は父と母の「子」であったよ。
とんと立場が移ろいで、そんなこと忘れちゃってたよ。

また進化した…

ディストリビューターをリペアに出したのは、1月20日のことでした。
先方に到着後、すぐ連絡がありました。

無事受け取ったよ!最優先でやるから待ってて!

そして今日、もう帰ってきた!
仕事、速〜い ❤︎
おっ送り状が進化してるぞ…

“Reconstructive Surgery for Lucas Distributors”
(ルーカス製ディストリビューターの修復手術)

彼の技術のおかげで、我々の車は元気に走り続けることができます。
しかも、速いだけでなく丁寧。
彼の仕事、超好みです。
お…なんか彼の仕事を表すワンポイントが付くようになったぞ…

彼の自信の表れ。
そして需要があって彼の技術を頼る人はたくさん。
我々もその恩恵に預かっています。

これは2014年4月に単身、数日だけ仕事で渡英した時。
この時初めて、Doctor を訪れました。
特に大きな看板が出ているわけでもなく、出ているのはコレだけ。
女房殿に詳細地図をもらい、OS の地図とを頼りに向かったのですが、同じ道を行ったり来たり。
諦めかけた時、思い出したのが

「ゴミ箱のあるところ、人の営みあり」

写真には写っていませんが、杭のたもとに横に倒したゴミ箱が。
レンタカーを停めてよーく見たら、Doctor がにっこり笑ってた…
あれから10年も経つのかぁ。
程なくして Doctor は工業団地の中のもっと広い工房に引っ越し、そこも訪れました。
需要があるんですね…


文化の違う国で訪問先を訪ねるのは、時に困難を伴うこともあります。
オーストラリアのメルボルンから1時間半、Harcourt という小さな町にある
Morris Minor Garage
プライベートミュージアムを訪問した時のことを思い出します。
オーナーの連絡先は公開されていますが、所在地は非公開。
コンタクトを取ってから向かいました。
やはりパっとは探せず、行ったり来たり…
いくら走っても、景色がずーっと変わりません。
りんご農園とワイナリーだらけ。

そして見つけたのは、やっぱり『ゴミ箱』。
あーこんなんじゃ、わかんないって…

2エーカーのオリーブ畑、自宅、りんごの木もたくさん。
そんなところにプライベートミュージアムはありました。

この頃は、イギリスだけでなくオセアニアにも足を伸ばしていました。
ずいぶん時間が経ったなぁ。